農政学 講義シリーズ / 第 1 回

はじめに ― この講義のスタンス

農業政策は国の経済発展段階と国民経済の「型」によって規定される。
一律の正解はなく、各国の歴史的経路を比較することでしか農政の本質は見えてこない。

安藤光義 教授(東京大学農学部) 8 セクション構成 全 12 回シリーズの導入回
SECTION 01

講義の核心命題

農業政策には 「世界共通の正解」が存在しない。 その国の経済発展段階と国民経済の「型」が異なれば、有効な農政も異ならざるを得ない。

農業を考えるとき、人は「最先端の技術を入れれば良い」「強い農家を育てれば良い」と単純化したくなる。 しかし安藤教授はこの講義の出発点で、まずその発想を断ち切る。

食料・農業・農村問題の中身は、その国がいま経済発展のどの段階にいるか、 そして国民経済全体がどんな「型」を持つかによって、内容そのものが大きく変わる。 したがって対応する政策もまた異ならざるを得ない。

その国の経済発展段階および国民経済のかたち(型)によって、 食料・農業・農村問題の中身は大きく異なり、それに対応するための諸政策も異ならざるを得ない。 この講義では、その政策を規定する要因である経済発展段階と国民経済の「型」の違いに注目し、 先進国諸国の食料・農業・農村・環境政策の比較検討を歴史的視点から行うことにしたい。
この講義が比較検討する政策領域は 食料政策・農業政策・農村政策・環境政策 の 4 領域。 単独で語らず、国民経済全体の発展段階と結びつけて読むのが本講義の方法論である。
SECTION 02

講義の 2 部構成

本講義は 「先進国間の歴史比較」「戦後日本の展開」 の 2 部で構成される。

第 1 部 / 第 2 〜 6 回

国民経済の発展段階と農政の関係(先進国比較)

重商主義 → 自由主義 → 帝国主義 → 国家独占資本主義 の 4 段階で、英独仏伊露日米の対比を行う。

各段階で農業構造がどう変化し、農政がどう応答したかを歴史的に追う。

第 2 部 / 第 7 〜 12 回

戦後日本の食料・農業・農村問題の展開

第 2 部の終わりは 1985 年プラザ合意・円高後 に設定される。

食料・農業・農村基本法(1999)の成立以降の現状は、本講義の射程外。別途「比較農業政策論」の講義で詳しく論じる予定である。

安藤先生からの補足 /なぜ 1985 年プラザ合意で区切るのか

プラザ合意以降の円高は、日本の輸出競争力を奪い、企業の多国籍化と「国内産業の空洞化」を一気に進めた。 農業・農村も低賃金労働力プールとしての役割を終え、その役回りは 非正規雇用と外国人労働力 に置き換わっていく。 つまり、戦後日本農政が前提としていた経済構造が断絶する転換点こそが 1985 年なのである。

それ以降の食料・農業・農村基本法(1999)体制は、新自由主義・WTO 体制・グローバル化という別の文脈で語る必要があり、 別講義「比較農業政策論」に委ねる、というのが本講義の射程設計である。

SECTION 03

ロストウ「経済成長の諸段階」

ロストウは 全ての社会が 5 段階を辿って自立的成長へ移行する と主張した。 離陸(産業革命)こそが分岐点である。

STAGE 1
伝統社会
前近代の停滞
STAGE 2
離陸のための
先行条件期
英の囲い込み等
STAGE 3
離陸
Take-off
産業革命
STAGE 4
成熟への
前進
本格工業化
STAGE 5
高度大衆
消費社会
耐久財・サービス

どんなに低開発状態の国であっても「伝統社会 → 先行条件期 → 離陸 → 成熟 → 高度大衆消費」を経れば 経済発展は可能だとロストウは説いた。原型はイギリス。毛織物工業のプロト工業化から 2 回の囲い込みを経て農業革命へ、そして産業革命へという経路が「お手本」とされた。

安藤先生の注釈 (※)

ロストウは「全ての社会」は必ず「農業支配的な基礎から工業支配的な基礎に移行する」、 工業化への「離陸(Take-off)」過程を経験するというものであり、全ての伝統社会は この離陸過程を経験することで永続的な自立的成長過程に移行することができるというものである。

どのような低開発状態の国であっても、 「伝統社会 → 離陸のための先行条件期 → 離陸 → 成熟への前進 → 高度大衆消費時代」 という過程を経て、経済発展を遂げることが可能であると主張した。この発展モデルはイギリスが原型である

このロストウ理論の最大の問題点は「離陸の先行条件」をどのようなものとして把握するか ということであり、「伝統社会」の特性如何がその後の経済成長のパターン(「型」)も 大きく変わってこざるを得ないという問題に対して明確な解答がないという点にある。 それはともかく、産業革命以前の社会構造という初期条件がその後の経済成長も大きく規定している ということだけは間違いない。

詳しくは ロストウ『経済成長の諸段階』ダイヤモンド社(1960) などを参照のこと。
しかしながら、たとえ一国孤立的な視点からすると完璧な経済開発計画を策定し、それを実行に移したとしても、 それが成功を収めるケースは少ないというのがこれまでの現実である。 経済援助等を数十年にわたって実施しているにもかかわらず、どうしてこれほど多くの国が 低開発状態にとどまっているのだろうか。 むしろ、現実の経済発展を規定しているのは、その国が国際政治経済体制のなかで どのような位置を占めているのか、どのような立場に置かれているのか、という点である。 これに対する認識なくしては、折角の処方箋(経済発展戦略)も画餠に帰さざるを得ないのではないだろうか。
ロストウ理論の限界:「離陸の先行条件」「伝統社会の特性」がその後の経路を大きく規定するのに、 初期条件をどう把握するかについて明確な解答がない。後発国がイギリス型と同じ経路を辿れる保証はない。 一国孤立的な視点では現実の経済発展は説明できない ― ここから世界システム論へ橋が架かる。
SECTION 04

各国の離陸パターン ― 英・独・日

同じ「離陸」でも国によって 飛び方は劇的に異なる。 これが講義全体を貫く核心的な比較軸である。

英国 ドイツ 日本 伝統社会 大衆高度社会 工業化度
綺麗に離陸した英国
なかなか飛べない独
無理をして飛んだ日本

綺麗に離陸した英国

毛織物業のプロト工業化が先行。第 1 次・第 2 次の囲い込みで土地集積が進み、農業革命(ノーフォーク農法)で生産性が跳ね上がる。これが産業革命の前提条件となった。

なかなか飛べない独

300 余の領邦国家に分裂し、産業資本の形成が遅れる。ユンカー支配による「上からの近代化」を強行したが、農民層分解は停滞し、零細な「小農」が温存される構造となった。

無理をして飛んだ日本

外圧(黒船)を契機に国家主導で重化学工業化を強行。地主制による高率現物小作料で農民を低賃金強搾取し、工業化の原資を捻出した。社会的歪みが大きく、後の総力戦体制と植民地獲得競争につながる。

Counter-Argument / 安藤先生の核心的な問い 綺麗に離陸した英国 ― だが、本当にそれは「英国一国の力」だったのか?
ロストウは英国の離陸を「お手本」として描いたが、安藤教授は本講義で繰り返し、 この見方には重大な見落としがあると指摘する。英国の離陸は 植民地という「周辺」が支えていた のではないか、という問いである。これは第 5 節「世界システム論」へと直結する核心的な反論である。
北米とインドを植民地としたことが、英国の離陸を可能にしたのではないか ― 国内の囲い込み・農業革命だけでは説明できない巨大な蓄積が、海外から流入していた。
「周辺」が支えた離陸 ― 英国は世界システムの「中核」として、周辺地域から原料・資金・市場を吸い上げる構造の上で工業化を進めた。
商業革命あってこその産業革命だったのではないか ― 16〜18 世紀の大西洋三角貿易による富の蓄積がなければ、産業革命の資本も市場も存在しなかった。
ロストウのような 「一国を孤立的に捉える視点」 ではこの違いは説明できない。 重要なのは、その国が国際政治経済体制の中でどんな位置を占めていたか ― これが第 5 節「世界システム論」の問題意識である。
SECTION 05

ウォーラスティン「世界システム論」

ウォーラスティンは 「世界経済全体が 1 つのシステム」 であり、 中核 / 半周辺 / 周辺の三層構造から成ると主張した。

こうした視角から発展途上国の問題を把握しようとする方法論の代表が、 ウォーラスティン(☆)による世界システム論である。 世界システム論は、現行の資本主義経済体制を前提とする限り、発展途上国の低開発状態を 構造的に規定された脱却不可能なものと考えるが、この講義ではそこまで極端な立場は採らない。
中核 / Core
覇権国とそのコア国。高付加価値生産と金融支配
半周辺 / Semi-Periphery
中間的地位。中核に従属しつつ周辺を搾取
周辺 / Periphery
原料供給・低賃金労働。構造的に低開発状態

「中核の椅子の数は決まっている!?」

安藤先生の注釈 (☆)

分析単位は一国単位ではなく 世界経済全体 である。 「国民的発展」というのは フィクション であって存在するのは 1 つの「世界システム」だけであると主張したのがウォーラスティンである。

世界システムは「中核」「半周辺」「周辺」という 3 地域から構成されており、その入れ替わりはあるものの、 例えば「覇権国」は オランダ → イギリス → アメリカ へと 移行しているにすぎず、世界システムの 三層の支配構造そのものに変化はないとする。

詳しくはウォーラスティンの著作をあたられたい。

ウォーラスティンの著作は数多く邦訳されているが、 ウォーラスティン『史的システムとしての資本主義』岩波現代選書(1985) が比較的コンパクトで読みやすいように思う。
オランダ
イギリス
アメリカ

= 覇権国の入れ替わりはあるが、三層の支配構造そのものに変化はない

ただし安藤教授は そこまで極端な立場は採らない。 世界システム論の構造的視点を取り入れつつも、各国の能動的な選択余地を完全には否定しない。 この「両者を引き受ける」姿勢が、第 7 節で示される折衷的現実路線につながる。
SECTION 06

ペティ・クラークの法則

経済成長とともに 産業の重心は 1 次 → 2 次 → 3 次へ移行 し、 第 1 次産業の就業人口割合は次第に低下する。

伝統社会
75%
18%
7%
産業革命期
50%
32%
18%
高度成長期
22%
38%
40%
成熟社会
25%
70%
第 1 次(農林水産)
第 2 次(製造・建設)
第 3 次(サービス・金融)

※ バー比率は概念図。実数値ではない

安藤先生の注釈 (◎)

ペティ・クラークの法則とは、経済成長とともに産業の重心は 第 1 次産業から第 2 次産業、第 3 次産業に移るとともに、 産業間の所得格差によって労働力が移動する結果、 第 1 次産業の就業人口に占める割合が次第に低下する傾向にあるというものである。

この法則は ペティとクラークという 2 人の名前をとったものである (ウィリアム・ペティ/コーリン・クラーク)。

この経験則は 「農村から都市への人口流出」「兼業農家化」「離農」 といった 農村問題を構造的に規定する。日本でも、戦後の高度経済成長期に 農村から都市への大規模な人口移動(「集団就職」「金の卵」)が起こり、 農工間(所得)格差が深刻な政策課題となった ― これは第 7 回・第 8 回で詳しく扱う。

ペティ・クラークの法則は 一国の経済発展に共通する法則性 として、 世界システム論と並んで本講義の方法論的支柱となる。
SECTION 07

講義のスタンス ― 折衷的現実路線

ロストウ的「共通法則」と、ウォーラスティン的「構造的位置取り」を どちらも片寄らずに引き受ける。 安藤教授が採るのは折衷的な現実路線である。

両者の理論に対して十分な注意を払いつつ、折衷的な現実的な路線を採ることにしたい。 ペティ・クラークの法則のように一国の経済発展に共通する法則性が貫いていることを前提としたうえで、 その国が置かれている 国際政治経済体制における位置世界経済全体の発展段階(それは最も経済発展を遂げた国家群によって規定されている)から受ける影響、 相互規定関係に注目しながら、 各国の個性を 食料・農業・農村・環境政策の比較検討を行うと言い換えることもできるだろう。
PREMISE 1

共通法則性を認める

ペティ・クラークの法則のような、一国の経済発展に共通する構造変化は存在する。 各国の経路は完全にバラバラではなく、共通の「文法」がある。

PREMISE 2

位置取りを加味する

同時に、その国が国際政治経済体制でどの位置を占めるか、 世界経済全体の発展段階からどんな影響を受けるかが、進路を大きく規定する。

PREMISE 3

相互規定関係に注目

世界経済全体の発展段階は「最も経済発展を遂げた国家群によって規定されている」。 つまり中核国と周辺国は一方通行ではなく、互いに規定し合う関係にある。

METHOD

4 領域横断で観る

各国の個性は 食料政策・農業政策・農村政策・環境政策 の 4 領域を 分断せずに比較することで初めて立ち上がる。これが本講義の方法論的立ち位置である。

安藤先生からの補足 /なぜ折衷路線なのか

ロストウだけでは、なぜ多くの国が経済援助を受けながらも低開発状態にとどまるのかが説明できない。 ウォーラスティンだけでは、各国が能動的に選び取った政策の差(例えば日本の戦後農地改革と西独・東独の違い) が見えなくなる。両者を等しく引き受ける折衷路線こそが、現実の農政比較に最も耐える方法論である。

この立場は本講義全体(全 12 回)を貫く視座である。 各回の歴史記述で、共通法則 / 位置取り / 相互規定 の 3 つを行き来する読み方を意識してほしい。

農政の正解は教科書の中にはない。比較史の中にしかない。
英国はなぜ綺麗に離陸できたのか、日本はなぜ無理をしなければならなかったのか ― この問いを繰り返すことが、現代の食料・農業・農村政策を考える基礎体力をつくる。


SECTION 08

全 12 回ロードマップ

本講義の全 12 回は 第 1 部「歴史的比較」 → 第 2 部「戦後日本」 の 2 部構成。 第 1 回(本回)はその全体像を提示する導入回である。

第 1 回
はじめに ― この講義のスタンス
本回。経済発展段階論・世界システム論・ペティ・クラークの法則を導入
PART 1 / 先進国比較史
第 2 回
重商主義段階の農業問題
封建社会の解体と資本主義の形成期。エンクロージャー・農村工業
第 3 回
自由主義段階の農業問題
イギリスを「世界の工場」とする国際分業体制。穀物法廃止・自由貿易
第 4 回
帝国主義段階の農業問題
独占資本の形成と世界農業恐慌。「麦と鉄の同盟」(ビスマルク)
第 5 回
国家独占資本主義① 戦前まで
第 1 次大戦・世界大恐慌・ニューディール・世界経済のブロック化
第 6 回
国家独占資本主義② 戦後
IMF・GATT 体制と農業保護政策。資本主義の政治的・経済的変容
PART 2 / 戦後日本の展開
第 7-8 回
戦後再編期 + 高度経済成長期
農地改革・サンフランシスコ体制・基本法農政・国際収支均衡確立期
第 9-10 回
高度成長破綻 + 中核国家体制
オイルショック・プラザ合意・雁行型経済発展・バブル経済
第 11 回
第 2 部のまとめ
基本法農政から食料・農業・農村基本法へ。1992〜2013 年の年表
第 12 回
地方社会における外国人財との共生
技能実習制度・特定技能・茨城県八千代町の事例・移民受入論
各回の図解は順次公開予定。本シリーズを通読することで、英国産業革命前から 現代日本の外国人労働力問題まで、約 500 年の農政史を貫く視点が手に入る。